雪の雑音と生活

つれづれなるままに日々感じたことを電波の網の目に残します

森会長の女性蔑視発言への批判に感じる違和感

オリンピック組織委員会会長・森元総理の発言への批判が連日報道されている。

その発言はというと

女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」(nhk報道より)

といったもの。

 

この発言が”女性蔑視”という言葉で報道されて

森会長が辞任するのかどうかについてニュースで追いかけられている。

 

この発言が女性蔑視ととらえられたこと自体、その場の雰囲気や森元総理の普段の言動に対する周囲が感じていたことが影響しているだろう。

この発言が女性蔑視ととらえられることに関しては別の議論が必要になるが

今回はこの発言に対する批判について考えてみた。

 

わたしはこのニュースをみていると、どうしてもいたたまれない気持ちになりチャンネルを変えてしまいそうになる。

このいたたまれなさは83歳のおじいちゃんが国民すべてから大バッシングを受けているということにも向けられているだろうが、

どちらかといえばこのいたたまれなさはバッシングをしている"私たち側"に感じている。

 

絶対的な正しさを振りかざし、わたしたちは森会長をここぞとばかりに狩っている。

それがあたかも自分自身はジェンダーの平等を達成しようとしているという姿勢を持っている証明であるかのように。

 

 

こういった批判に対する違和感は"me too"運動の時も感じたものだ。

この大バッシングがいじめに感じられるのも理由にあるだろうけれども

もう少しこの違和感を解読していきたい。

 

批判されている側はそのような発言や行動が問題視されない社会で生きてきた。

性暴力は法律上たしかに違法ではあったものも、それが実際の空気の中では見逃されていた。

自分自身の女性蔑視的な発言や行動に関してこれまでは何も言われてこなかったのに

最近になって周りから旧時代的な価値観をもつ人として弾劾されるようになった。

 

彼ら個人にどこまで女性差別的価値観を持っていることの責任を問えるのだろうか。

このことを考えていると、昔ドキュメンタリー映画で見たナチスの宣伝相ゲッべルズの秘書ポムゼルの発言を思い出した。

その発言は凡庸な個人は時代には逆らえないので、私個人に罪はないといったもの。

彼らも時代の被害者なのだろうか。彼らに罪はあるのだろうか。

個人に罪があってもなくても、そのことすら恣意的に決められうるものであるので

目指すべき社会に向けて変革を達成するために

その方法として彼ら個人を批判しなければならないのだろうか。

 

私が森会長の発言に対する大バッシングや”me too”運動に対して違和感を覚える理由に

自分自身が性暴力を受けてきて

それに対して声を上げることが許されていなかったことがあるかもしれない。

いつのまにか女性差別的な発言や行動・性暴力にすらさえも妥協するようになり

むしろそうすることで

つまり、自身の経験を悲しくないもの・あたりまえのものとしてとらえることで

生き延びてきた。

だから改めて自身の過去を悲しいものとして認めるような言動をしたり

わざわざ波風を立てることに恐怖を覚えるのかもしれない。

 

弱い立場にある人にこのような思いを抱かせず、声を上げていいと思わせるためにも

これ以上そのような被害者を出さないためにも

みんなで声を上げていくことはたしかに必要だ。

でも必要なのは彼らをただひたすら批判し、新しい価値観を持っていないものとして排除することではないはずだ。

 

国連が掲げる開発目標であり

世界各国の教育機関や企業とうでも採用されている標語SDGs(持続可能な開発)では

「誰一人取り残さない社会」が掲げられている。

 

この”誰一人”には森会長をはじめ

古い価値観の中で育ち、今もその価値観の中で生きている人たちも含まれているはずだ。

森会長に対してただ辞任を要求する社会は森会長を取り残して進んでいる社会である。

わたしたちが”誰一人取り残さない社会”を実現するためにするべきことは

森会長に、自らが信じてきた価値観が今変化していることを客観的に認め、この発言について真摯に謝罪することを求めること、そしてその謝罪を受け入れることではないだろうか。

 

 

これは理想論にすぎず、彼らにそのような改心を求めること、私たち側も受け入れることは無理だろうか。

 

謝罪会見は開かれたが、記者の質問に対しての反応からまた批判が相次いだ。

記者の発言には「(オリンピック組織委員会会長に)適任ではないと思います」(yahooより)

といったものも見られた。

こういった記者の発言にもどうも違和感を覚える。

記者の態度がどうも辞任を前提としたような、社会の動きを味方につけて大きな力を持っているような攻撃的なものであり、メディアが必要とするはずの中立さを失っているのではないか。

理想論で終わらせないための方法に我々自身の態度やそれに影響を与えるメディアの姿勢を見直す必要がある。

 

本当に”誰一人取り残さない””インクルーシブ”な社会を目指すのなら

古い価値観の中で育ってきた彼らさえも包含しつつ

その社会に移行していかなければならない。

 

大阪なおみは「周囲の人たちが彼に発言が正しくないことだと伝え、理解させることが大事だと思う」と述べた。(nhkより)

ただひたすら批判して、辞任を求める前にできることが、まさに周囲の力だ。

もちろん権力のある人に対して声を上げるのは勇気がいる。

そのような勇気を必要としても好ましい結果が返ってくるとも限らない。

やはりこの空気を打ち破るためにも大勢または匿名による批判が必要なのか。

 

そのような理由からも

個人に対する批判が行われるのは仕方がないが、すこし度が過ぎているように感じる。

本当に批判するべきは、そのような考え方それ自体である。

個人がそのような考え方を持つのなら

その理由や状況について考えなければならない。

 

このような議論を突き詰めていくと犯罪すら成立しなくなるのだけれども・・・

この辺に関する議論、教えてください。

 

とりあえず子供の頃父親がリビングでみていて

断片的にしか記憶がないドキュメンタリー映画ゲッベルスと私』

の本を読んでみようと思います。