大学生の生活 生活のなかの2つの心理
大学生の生活
朝4時までdアニメストアでアニメをみてそのまま気絶したように寝て14時くらいに起きる。それから気になっていた本をとって気が済むまで読む。おなかがすけば出前を取るし、すかなければ食べない。眠たくないのでまたアニメかYoutubeを気絶するまで見る。お風呂は外に行く用事がある時だけ入る。そんな自分を自己嫌悪するときもある。そんな生活。
朝7時におきて、朝ご飯を食べ、図書館に向かい、資格試験の勉強をする。しっかり昼食も夕食も取り、お風呂にも入り、24時には就寝する。そんな生活。
どっちの生活のほうがより良いかと聞かれれば、もちろん後者だと思います。
でも、こういったちゃんとした生活をしていると、どこか空虚な感じがしてたまらなくなる時があります。
だらだらして起きてるか起きていないかもわからないような、自分の好きな本だけ読んでいるような生活では決して感じないような、空虚な感じです。
考えなければならないことから目を背けて、とりあえず目の前にぶらさげる人参を探して、それを追いかけているだけなんじゃないか、というような感じです。
話は変わります。
小学生の頃、自転車乗り場で自転車に跨ごうとしたとき、楽しむことは悲しいことから目を背けることなんじゃないかなと思ったことを覚えています。
悲しい出来事は自分のうちにも、他人のうちにも、常に起こっているのに、そこから楽しいことに目を背けているんじゃないかなって。
負の感情を起こさせるような出来事にわざわざ向き合う義務は私にはないわけですが、
そのような出来事やその出来事が引き起こす感情と向き合うことはできるんでしょうか。
悲しいことはただ悲しく、いつまでも悲しんでいるとどんどん沼に落ちていきます。
だから、気持ちを切り替えるしかない。つまり結局は真摯に向き合えません。
もしかしたら、気持ちを切り替えず沼に落ちて行った先に絶景の洞窟があるかもしれませんが、そうなる前に私の中には気持ちを切り替えようとする力が働きます。
負の感情を起こさせるような出来事を解決して、それが引き起こす感情を消し去ったとしても同じこと。結局その感情それ自体とは向き合えない。
だから、人はドラマやアニメで自分には直接関係ない出来事でそのような感情を呼び起こし向き合ったふりをするのかもしれません。自分と直接かかわりがなければ、どんなに悲しんだって、いつか終わりは来ますから。
この、目を背けるしかないものと背けることで送られる健全な生活というのは、最初の話にに類比できると思うんです。ずっと目標を探し続けて路頭に迷うか、目標を決めてしまって突き進むか。
目標を決めなくても別にいいという答えもありますね。マリオを楽しんでいる人は誰もピーチ姫を救うことを考えてないと聞いたことがあります。その過程を楽しむことがある意味目的になっています。
もしかしたら、今書いているような内容は、「就職活動で病んでたなあ」と後で回想されるかもしれません。でも、「そういうこともあったなあ」とする方法でしかその思いが昇華されないってなんだかやり切れません。「若いころはとがってた、今は丸くなった」というような昼間の刑事ドラマで聞くような言葉も同じ。とがってたところにも本質はあるはずなんです。いつのまにか、目標や生きる意味を決めて(人によっては無意識的に、娯楽や贅沢、家族を目標にして)、とがりながら答えを探すことを諦めたようにも感じます。
生きる意味なんてないんですから、自分で作るしかない。それを決めてしまって健康的な生活を送るのがよいのも当たり前です。じゃあこの空虚な感じはどこから来るのでしょう。もっと絶対的な意味が欲しいから?ほかにもっと適切な意味が自分にはお似合いだと思っているから?
多分、今人(ここは特定のだれか、知り合いのこと)のために生きてないからなんですね。人のために生きたい。自分が発すること成すことを他人のうちで表象されたい。私にとっての他人の中だけなら、私たち無限にどこにでもいける。だって他人の心の中を完全に把握することはできないから。私にとっての他人の中で、私たちの人生の意味はどこまでだって広がることができる。
それかこの空虚さは、とりあえず決めた目標が短絡的なことからくるかもしれません。
抑うつリアリズムという現象があります。これは少しうつ状態の人のほうが、現実を正確にとらえられているという学説です。うつ状態がひどくなると現実をネガティブにとらえすぎてしまうのですが。うつでない人は、現実をよりポジティブにとらえているそうです。でもとらえたところにしか現実はないのですから、現実をポジティブにとらえるほうが幸せで、人生がうまくいきそうです。でも私はすこし鬱状態になっている自分のほうが、そのときの自分の世界の見方が、好きです。
前までの私はstay positiveをモットーにしていましたが、最近はstay neutralをモットーにしています。
でもstay positiveをモットーにしているときに、「そのままの世界の見方でいてね」と友人に言われたことを思い出しました。ごめんなさい。友人。でもあの頃はポジティブやネガティブといった風ではなく、現実的に生きられていたような気もします。
働く意味や生きる意味を考えていつまでももやもやしていたら、生きていくことがとても難しくなります。今は養ってもらっているのでこのような甘えたことを言えるけれども、自立したら働くしかない。だから、ある程度妥協するしかないのかもしれません。
それでも、つねに本質に目を向けていたいものです。
みなさんはどうやってこれらの疑問やもやもやを乗り越えていますか。
そういう意味では、芸術家や研究者といった職業は、両方を同時に達成できているようで、憧れます。
効率的に稼いで自分が本当に向き合いたいことに向き合う時間を作るという方法もありますね。
このようなもやもやをどうにかするには、哲学の本を読むと、いいのかもしれません...