雪の雑音と生活

つれづれなるままに日々感じたことを電波の網の目に残します

世界の主役は男性?

昨日の夜Youtubeをだらだら見ていたら、とんでもない人を見つけました。

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彼女です。Courtney Hadwinさんです。

彼女の歌声を聞いた瞬間、言語的な感想を置き去りにして、ただただ鳥肌が立ちました。それからこの曲を聴き終わるまで鳥肌が立ちっぱなしでした。ちなみに今でも聞くと鳥肌が立ちます。

 

それから涙が自然とあふれてきて、気が付けばわんわん泣いていました。

 

そこでやっと鳥肌と涙の理由について言語を使って考え始めました。

彼女の歌声、歌唱力、パフォーマンス自体が群を抜いて素晴らしいことは確かなのですが、それを言葉で説明する芸術知識が私には欠けています。ただ、彼女のパフォーマンスが言葉にならない鳥肌や涙の理由となっていることは明らかです。

 

今回は別の理由について考えてみます。考えたというより、泣きながら頭に浮かんだことです。

 

わたし、この世の主役はずっと男性だと思ってました。

たとえば彼女が歌うロックの主役、ロックンローラービートルズレッチリ、クイーン、オアシス・・・あげるときりがありませんが、男性が多いです。

ほかにも、サッカーや野球などメジャーなスポーツでは女性のそれより男性のそれのほうが圧倒的に人気で市場規模もでかいです。

さらに映画監督といった芸術分野でも圧倒的に著名な方は男性が多いです。アカデミー賞の監督賞でも女性がノミネートされたのは今年2021年が初めてでした。

日本でいえば、お笑い芸人も圧倒的に男性が多いです。それから番組で、ネクタイを締めてメインの司会をするのは男性です。さらに民意を反映し国を動かす国会議員も衆参あわせて85%は男性です。国民的バトル漫画の主人公も男の子です。フェスに出場するバンドも男性が多いです。日常の範囲でも、大学の教授や、地域の病院の先生など、彼らは男性が多いです。これらの場面で、女性は補佐的な役割を担っています。

 

それぞれが担っている役割に良し悪しや優劣があるということではありません。たとえば男性が多い医者も、女性が多い看護師も、男性が多いメイン司会者も、補佐的な女性キャスターも、それぞれ欠けてはならない大切な役割を担っています。

とはいえ、明らかに性別による差が大きすぎると思うのです。

 

わたしはこれは、男性のほうがそういった場面で活躍する才能に恵まれているからだとどこかで思っていました。

 

だから、悲しかったんです。父親が居間で流す伝説のロックンローラーのコンサートビデオを見ながら、大ヒット映画のインタビューを受ける監督を見ながら、ノーベル賞を受賞する科学者のインタビューを見ながら、ネクタイを締めたメイン司会者の番組を見ながら、バトル漫画をよみながら、フェスで音楽を楽しみながら、大学で授業を受けながら、この世の主役は男性、私たち女性は脇役なんだと、ずっと思い込んでいました。

女になんか生まれなきゃよかった。男に生まれたかった、と思っていました。

 

だから、わたしは彼女をみて泣いたのかもしれません。

私はロックに全く知識がありませんが、彼女は私の思い込みを破壊してくれました。

とはいえ、彼女に対して抱いた感想は、”女の子なのに”すごいといった感想ではなく、ただただすごいといったものです。性別どうこうなんて全く感じさせない彼女の歌声に私は感動していたんだと思います。


 

ふと思えば、数は少ないですが上にあげた男性が活躍することが多い場面で活躍する女性もいます。それでもやっぱり、男性女性という住み分けがあるような気はします。

だからそういったことを全く感じさせない彼女のパフォーマンスに心から感動しました。

 

男性がメインの役割を担うことが多いのは、生来の才能というではなく、長年女性が抑圧されてきた末にできた社会構造かもしれないと思えるようになりました。

 

わたしのこの論理には、いわゆる女性らしさから抜け出して、男性が現在活躍している場面で女性も遜色なく活躍できることが女性が世界のメインステージに上がる方法ということになるので、根本的な男女差の解決にはなってないという批判が考えられます。

ただ、現在ある女性らしさや男性らしさも社会的に構築されたものであることは忘れてはならないと思います。

だからこそ、男女が社会的な文脈にとらわれることなく自分が望んだものを表現し、自分が望む役割に就くことができる社会の実現に向けて自分ができることを考えたいです。

 

 

いつか彼女がコンサートを開催しに来日してくれることを待ち望んでいます。

 

自分で決めた選択は実はレールに乗っていた?

私、気が向いたらYouTubeでTEDトークを見ています。たまーに。

世界の著名な方の話を10分間程度で、しかも英語の復習もしつつ無料で見られるんです。インターネットって本当にありがたいです・・・。

 

それでこの間見たのは、Googleのソフトエンジニアとして働いていたMax Hawkinsという方のスピーチです。

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ある人のこれまでの位置情報から、その人が次の日に行く場所を高い確率であてることができる、という論文を彼は読みます。

その日、彼は同僚と新しく開いたバーに行くんですけど、その論文を思い出して、AIに自分の意志で行くと決めた場所が予測されたかもしれないと思うと変な気がしてきます。

 

そこで彼は、アルゴリズムにランダムに行く場所を決めてもらうアプリを作ります。

彼が住んでいるサンフランシスコ内で、ランダムに場所を選んでもらい、Uberタクシーを呼んでもらい、彼は目的地を知らないままある場所に向かうのです。

 

最初彼が行きついた場所は緊急精神病棟でした・・・

彼は、同じようにアルゴリズムに任せて、カフェや美術館など、様々な場所を訪れます。

 

そんな感じで彼はさまざまなアプリ。ランダムな選択をするアプリを開発します。

1週間禁じる食べ物をランダムに選ぶアプリ、何をすればいいかランダムに印刷するアプリ、ランダムな曲リスト作成アプリ・・・

そして彼はFacebookの公開イベントをランダムに選んでもらうアプリも作ります。

かれは見知らぬJoeさんの誕生日パーティーに参加したり、どこかの学校の発表会に参加したりします。

 

フリーランスになった彼は、さらに住む国さえもアルゴリズムに任せます。

数週間ごとに彼はランダムに住む国を変えていきます。

そこで彼はサンフランシスコでしたように、アルゴリズムに任せてランダムな場所やイベントを訪れるのです。ムンバイではヨガにもチャレンジしました。

 

そのような生活を2年間して彼は、「自分で選択をしてないのに、むしろ自分で選択していた時よりも自由になったような感じがする」というのです。

アルゴリズムに選択を任せるようになって、そうでなければ行くことのなかった場所やイベントに彼は行くことになります。そして彼は新しい出会いをするのです。

人は普段、自分自身で選択を決めているようで、社会構造や歴史など、様々な文脈に実はとらわれていて、そのとらわれた中の数少ない選択肢から結局は選択をしているため、実はたくさんの選択肢を見落としている、と彼は言います。

 

AIの活用って、例えばweb広告みたいに、その人の趣向に合わせて新しいものを提案するイメージがあったんです。でも、こんな風に完全にランダムに新しいものを提案するアルゴリズムもあるんですね。

 

人生の選択については、アルゴリズムに任すことが現実的じゃないので、狭い選択の中から選ぼうと思います。選択が数多すぎても疲弊してしまうので、選択の幅が狭まっているのはありがたいのかもしれません。もちろんそれはある程度恵まれているから言えることですが。

 

ただ、休日とかに行く場所をランダムに決めて訪れる、みたいなことは私も実践してみたいです。

 

オンライン生活に不足しているものの一つはこのランダム性だと思います。外に行けば、ある空間にあるということだけで、ランダムな出会いがあります。たとえば、図書室にいれば、歩いていれば面白そうな題名の本が目に入ったり、教室にいれば、ひょんなことから知り合いができたりします。オンラインだとどうしても自分から手を伸ばさないと情報が得られません。

それでも、誰でもいつでも入ることができるzoomの部屋を作ったり、そういったランダム性をオンラインでも確保できるような取り組みもされています。それでも、zoomに入ることは自分で選択する必要があるのですが。オフラインだと、その場所にいることは生活の一部なので、そこにいていいのだろうかと思うことはないのですが。

そういった意味で、自分の選択ではなく、誰かからの強制によってどこかにいるということは、むしろ、わたしはここにいていいという安心感につながるのかもしれません。もちろんそのどこかが居心地の良い場所ということは必須の条件ですけれども。

大学生の生活 生活のなかの2つの心理

大学生の生活

 

朝4時までdアニメストアでアニメをみてそのまま気絶したように寝て14時くらいに起きる。それから気になっていた本をとって気が済むまで読む。おなかがすけば出前を取るし、すかなければ食べない。眠たくないのでまたアニメかYoutubeを気絶するまで見る。お風呂は外に行く用事がある時だけ入る。そんな自分を自己嫌悪するときもある。そんな生活。

 

朝7時におきて、朝ご飯を食べ、図書館に向かい、資格試験の勉強をする。しっかり昼食も夕食も取り、お風呂にも入り、24時には就寝する。そんな生活。

 

どっちの生活のほうがより良いかと聞かれれば、もちろん後者だと思います。

でも、こういったちゃんとした生活をしていると、どこか空虚な感じがしてたまらなくなる時があります。

だらだらして起きてるか起きていないかもわからないような、自分の好きな本だけ読んでいるような生活では決して感じないような、空虚な感じです。

考えなければならないことから目を背けて、とりあえず目の前にぶらさげる人参を探して、それを追いかけているだけなんじゃないか、というような感じです。

 

話は変わります。

小学生の頃、自転車乗り場で自転車に跨ごうとしたとき、楽しむことは悲しいことから目を背けることなんじゃないかなと思ったことを覚えています。

悲しい出来事は自分のうちにも、他人のうちにも、常に起こっているのに、そこから楽しいことに目を背けているんじゃないかなって。

負の感情を起こさせるような出来事にわざわざ向き合う義務は私にはないわけですが、

そのような出来事やその出来事が引き起こす感情と向き合うことはできるんでしょうか。

悲しいことはただ悲しく、いつまでも悲しんでいるとどんどん沼に落ちていきます。

だから、気持ちを切り替えるしかない。つまり結局は真摯に向き合えません。

もしかしたら、気持ちを切り替えず沼に落ちて行った先に絶景の洞窟があるかもしれませんが、そうなる前に私の中には気持ちを切り替えようとする力が働きます。

負の感情を起こさせるような出来事を解決して、それが引き起こす感情を消し去ったとしても同じこと。結局その感情それ自体とは向き合えない。

だから、人はドラマやアニメで自分には直接関係ない出来事でそのような感情を呼び起こし向き合ったふりをするのかもしれません。自分と直接かかわりがなければ、どんなに悲しんだって、いつか終わりは来ますから。

 

この、目を背けるしかないものと背けることで送られる健全な生活というのは、最初の話にに類比できると思うんです。ずっと目標を探し続けて路頭に迷うか、目標を決めてしまって突き進むか。

 

目標を決めなくても別にいいという答えもありますね。マリオを楽しんでいる人は誰もピーチ姫を救うことを考えてないと聞いたことがあります。その過程を楽しむことがある意味目的になっています。

 

 

もしかしたら、今書いているような内容は、「就職活動で病んでたなあ」と後で回想されるかもしれません。でも、「そういうこともあったなあ」とする方法でしかその思いが昇華されないってなんだかやり切れません。「若いころはとがってた、今は丸くなった」というような昼間の刑事ドラマで聞くような言葉も同じ。とがってたところにも本質はあるはずなんです。いつのまにか、目標や生きる意味を決めて(人によっては無意識的に、娯楽や贅沢、家族を目標にして)、とがりながら答えを探すことを諦めたようにも感じます。

 

生きる意味なんてないんですから、自分で作るしかない。それを決めてしまって健康的な生活を送るのがよいのも当たり前です。じゃあこの空虚な感じはどこから来るのでしょう。もっと絶対的な意味が欲しいから?ほかにもっと適切な意味が自分にはお似合いだと思っているから?

 

多分、今人(ここは特定のだれか、知り合いのこと)のために生きてないからなんですね。人のために生きたい。自分が発すること成すことを他人のうちで表象されたい。私にとっての他人の中だけなら、私たち無限にどこにでもいける。だって他人の心の中を完全に把握することはできないから。私にとっての他人の中で、私たちの人生の意味はどこまでだって広がることができる。

 

それかこの空虚さは、とりあえず決めた目標が短絡的なことからくるかもしれません。

 

抑うつリアリズムという現象があります。これは少しうつ状態の人のほうが、現実を正確にとらえられているという学説です。うつ状態がひどくなると現実をネガティブにとらえすぎてしまうのですが。うつでない人は、現実をよりポジティブにとらえているそうです。でもとらえたところにしか現実はないのですから、現実をポジティブにとらえるほうが幸せで、人生がうまくいきそうです。でも私はすこし鬱状態になっている自分のほうが、そのときの自分の世界の見方が、好きです。

前までの私はstay positiveをモットーにしていましたが、最近はstay neutralをモットーにしています。

でもstay positiveをモットーにしているときに、「そのままの世界の見方でいてね」と友人に言われたことを思い出しました。ごめんなさい。友人。でもあの頃はポジティブやネガティブといった風ではなく、現実的に生きられていたような気もします。

 

働く意味や生きる意味を考えていつまでももやもやしていたら、生きていくことがとても難しくなります。今は養ってもらっているのでこのような甘えたことを言えるけれども、自立したら働くしかない。だから、ある程度妥協するしかないのかもしれません。

それでも、つねに本質に目を向けていたいものです。

みなさんはどうやってこれらの疑問やもやもやを乗り越えていますか。

 

そういう意味では、芸術家や研究者といった職業は、両方を同時に達成できているようで、憧れます。

効率的に稼いで自分が本当に向き合いたいことに向き合う時間を作るという方法もありますね。

 

前まではこのような直観を私が話していたらそれに似たことを言っている哲学者を紹介してくれる人がいたんですが。今はコロナもあって話せていません。ぜひ教えてほしいです。ヤスパースキルケゴールあたりを読んでみようと思っています。

コロナ禍・大学3年生の春休み 就活の動機

週1回のアルバイト以外はほとんど家にいて、買い物以外で外に出ることはありません。一人暮らしということもありほとんどの時間を東京の狭い1Kで一人で過ごしています。

 

春休みなので、授業もなく、オンラインですら誰とも連絡をとらない毎日です。もともと友達が多いほうでも、ラインでやりとりを多くするほうでもなかったので、人とのコミュニケーションがめっぽうなくなってしまいました。

 

緊急事態宣言が出ていなかったら、もう少し友人らと出かけていたとは思うのですが・・・1年の春休みは実家で通院、2年の春休みはアルバイトと旅行という感じでした。3年の春休みは就活をする時期だと思うのですが、いかんせん誰にも会わない毎日だと、なかなか腰があがりません。みなさんはどうやってモチベーションを保っているのでしょうか。

 

モチベーションがないから就活が進まないという点で考えてみますと

なにしろ何かしら行動するには動機が必要だと思うので・・・

①もう1年だぶってもいいだろうという余裕から切羽詰まっていないためモチベがない

②人と会うことがないためか、自身の身分や状況を理解できていない

③ほんとうは自身の状況がひっ迫しているのにそれに気が付くのが怖くて目をそらし続けている

の3つが就活に本腰を入れられない理由に考えられます。

 

①「もう1年だぶってもいいだろうという余裕から切羽詰まっていないためモチベがない」に関してはだぶるくらいなら院に行きたいので、選択肢としては排除します。つまりストレート卒業で就職か、院進になります。ただこの点で懸念するのは、卒業と就活と院進を同時並行で行うため、最高の出来を最も必要としない卒論において手を抜いてしまおうと考えられうることです。わたしがわざわざ卒論を書く必要のある人文学系に進学した目的の一つに

・自分が満足のいく内容を自分の言葉で表現し伝える

というものがありました。卒論がおろそかになってしまえば、私の大学生活に悔いが残るといいますか、達成感をもって、自信をもって卒業することができないと思うんです。これはいままでさんざん怠け続けてきた自分を振り返ると、その時間を使えばこの3つを同時に達成することは容易ですし、事実できている人も多いと思います。なので完全に自業自得なんですが、わたしはいつも気が付くのが遅いです。

 

②「人と会うことがないためか、自身の身分や状況を理解できていない」に関しましては

たとえば友達と会うことがないため、先生と会うことがないため、自分が大学生という身分を持っていることを忘れてしまうんです。大学生たるもの、学ぶべきものですが、それさえも忘れてしまいます。授業を受けていても、わたしはなぜ今授業を受けているんだろう、とはっと考えてしまうのです。

さらに家族とも会わないため、わたしは養われているんだということも忘れてしまいます。そのため、自立する必要性があるのにもかかわらず、養われている対価を示さなければいけないのにもかかわらず甘えてしまっています。

とにかく、全然人に会わないためか、自分が誰で、何をすればいいのか、わからなくなってくるんです。何をすればいいかわからないというのは、誰かに何かを要求されているという感覚や、義務を負っているという感覚が欠如しているからです。

応答しようにも呼びかけを感じないし、呼びかけても応答は来ません。

もちろんパソコンやスマホ画面上ではありますが、正直画面上だとニュースで読まれる第三者の世界と何も変わらないんです。授業中、自分が話していないときに、寝ていても、泣いていても、歌っていても、画面の中の先生は変わらずしゃべり続けるんです。

そして、そのように生きていると、毎日ただ自分のために生きているような感覚になります。

自分のために食べる。

自分のために起きる。

自分のために授業に出る。

自分のために勉強する。

自分のために就活対策をする。

自分のためにシャワーを浴びる。

また明日自分のために生きるために

今日自分のために寝る。

自分のためだけに生きられる人もいると思います。趣味に熱中したり、などなど。ただ、正直言って、わたしには向いていません。わたしは人からの評価が自分の行動の大きな動機になってきたのだと確認しました。生きる理由となる自分の存在価値すら他人によって出来上がるものであるのなら、他人のいない世界の自分にどのような価値があって、そのために生きればよいのでしょうか。

というわけでわたしは自分が生きる理由や行動する理由をずっと探していたのですが、とりあえず理由がなくても動いてみようと思うんです。心臓は理由がなくても動いてるんですよね。それでも理由はずっと考えていたいですね。

 

③「ほんとうは自身の状況がひっ迫しているのにそれに気が付くのが怖くて目をそらし続けている」に関しましては

それによって現実から目をそむけたくなるたびに、ハンターハンター34巻・クラピカの「『知ること』で生き残る確率は大幅に上がります」・「『わからない』よりも 『出来るかもしれない』方が生死を分ける状況判断で結果に著しい成果をもたらすのです」というセリフを思い出して自分自身を鼓舞しています。

このセリフを着て、死ぬと覚悟していた王妃は生き残る望みがあると感じ動揺し震えてしまいました。私自身も、だめだと覚悟して何も手を付けなければ精神的に安定する(≒停滞する)かもしれませんが、少しでも望みがあれば対策をするべきですね。

 

 

 

一人暮らしで巣ごもりだと精神的に悪い気がして、(親は転勤で同じ東京にいるので)同居したいとふんわり親に伝えてみたら、一人だと身につくこともきっとあるよ!とふんわり却下されました。

 

一人暮らしをやめられるかもという希望がなくなり、もうここで生きるしかないんだと覚悟は決まったので(なので結果オーライ?)、もう頑張るしかありません。

 

同居人募集中デス あれ?

 

森会長の女性蔑視発言への批判に感じる違和感

オリンピック組織委員会会長・森元総理の発言への批判が連日報道されている。

その発言はというと

女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」(nhk報道より)

といったもの。

 

この発言が”女性蔑視”という言葉で報道されて

森会長が辞任するのかどうかについてニュースで追いかけられている。

 

この発言が女性蔑視ととらえられたこと自体、その場の雰囲気や森元総理の普段の言動に対する周囲が感じていたことが影響しているだろう。

この発言が女性蔑視ととらえられることに関しては別の議論が必要になるが

今回はこの発言に対する批判について考えてみた。

 

わたしはこのニュースをみていると、どうしてもいたたまれない気持ちになりチャンネルを変えてしまいそうになる。

このいたたまれなさは83歳のおじいちゃんが国民すべてから大バッシングを受けているということにも向けられているだろうが、

どちらかといえばこのいたたまれなさはバッシングをしている"私たち側"に感じている。

 

絶対的な正しさを振りかざし、わたしたちは森会長をここぞとばかりに狩っている。

それがあたかも自分自身はジェンダーの平等を達成しようとしているという姿勢を持っている証明であるかのように。

 

 

こういった批判に対する違和感は"me too"運動の時も感じたものだ。

この大バッシングがいじめに感じられるのも理由にあるだろうけれども

もう少しこの違和感を解読していきたい。

 

批判されている側はそのような発言や行動が問題視されない社会で生きてきた。

性暴力は法律上たしかに違法ではあったものも、それが実際の空気の中では見逃されていた。

自分自身の女性蔑視的な発言や行動に関してこれまでは何も言われてこなかったのに

最近になって周りから旧時代的な価値観をもつ人として弾劾されるようになった。

 

彼ら個人にどこまで女性差別的価値観を持っていることの責任を問えるのだろうか。

このことを考えていると、昔ドキュメンタリー映画で見たナチスの宣伝相ゲッべルズの秘書ポムゼルの発言を思い出した。

その発言は凡庸な個人は時代には逆らえないので、私個人に罪はないといったもの。

彼らも時代の被害者なのだろうか。彼らに罪はあるのだろうか。

個人に罪があってもなくても、そのことすら恣意的に決められうるものであるので

目指すべき社会に向けて変革を達成するために

その方法として彼ら個人を批判しなければならないのだろうか。

 

私が森会長の発言に対する大バッシングや”me too”運動に対して違和感を覚える理由に

自分自身が性暴力を受けてきて

それに対して声を上げることが許されていなかったことがあるかもしれない。

いつのまにか女性差別的な発言や行動・性暴力にすらさえも妥協するようになり

むしろそうすることで

つまり、自身の経験を悲しくないもの・あたりまえのものとしてとらえることで

生き延びてきた。

だから改めて自身の過去を悲しいものとして認めるような言動をしたり

わざわざ波風を立てることに恐怖を覚えるのかもしれない。

 

弱い立場にある人にこのような思いを抱かせず、声を上げていいと思わせるためにも

これ以上そのような被害者を出さないためにも

みんなで声を上げていくことはたしかに必要だ。

でも必要なのは彼らをただひたすら批判し、新しい価値観を持っていないものとして排除することではないはずだ。

 

国連が掲げる開発目標であり

世界各国の教育機関や企業とうでも採用されている標語SDGs(持続可能な開発)では

「誰一人取り残さない社会」が掲げられている。

 

この”誰一人”には森会長をはじめ

古い価値観の中で育ち、今もその価値観の中で生きている人たちも含まれているはずだ。

森会長に対してただ辞任を要求する社会は森会長を取り残して進んでいる社会である。

わたしたちが”誰一人取り残さない社会”を実現するためにするべきことは

森会長に、自らが信じてきた価値観が今変化していることを客観的に認め、この発言について真摯に謝罪することを求めること、そしてその謝罪を受け入れることではないだろうか。

 

 

これは理想論にすぎず、彼らにそのような改心を求めること、私たち側も受け入れることは無理だろうか。

 

謝罪会見は開かれたが、記者の質問に対しての反応からまた批判が相次いだ。

記者の発言には「(オリンピック組織委員会会長に)適任ではないと思います」(yahooより)

といったものも見られた。

こういった記者の発言にもどうも違和感を覚える。

記者の態度がどうも辞任を前提としたような、社会の動きを味方につけて大きな力を持っているような攻撃的なものであり、メディアが必要とするはずの中立さを失っているのではないか。

理想論で終わらせないための方法に我々自身の態度やそれに影響を与えるメディアの姿勢を見直す必要がある。

 

本当に”誰一人取り残さない””インクルーシブ”な社会を目指すのなら

古い価値観の中で育ってきた彼らさえも包含しつつ

その社会に移行していかなければならない。

 

大阪なおみは「周囲の人たちが彼に発言が正しくないことだと伝え、理解させることが大事だと思う」と述べた。(nhkより)

ただひたすら批判して、辞任を求める前にできることが、まさに周囲の力だ。

もちろん権力のある人に対して声を上げるのは勇気がいる。

そのような勇気を必要としても好ましい結果が返ってくるとも限らない。

やはりこの空気を打ち破るためにも大勢または匿名による批判が必要なのか。

 

そのような理由からも

個人に対する批判が行われるのは仕方がないが、すこし度が過ぎているように感じる。

本当に批判するべきは、そのような考え方それ自体である。

個人がそのような考え方を持つのなら

その理由や状況について考えなければならない。

 

このような議論を突き詰めていくと犯罪すら成立しなくなるのだけれども・・・

この辺に関する議論、教えてください。

 

とりあえず子供の頃父親がリビングでみていて

断片的にしか記憶がないドキュメンタリー映画ゲッベルスと私』

の本を読んでみようと思います。